秋風に触れて思い出してしまった。
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嫌悪であって “憎悪” では無いが、
人を心底(しんそこ)嫌いになったことが一度だけある。
友人関係にあった人間とのコミュニケーション上のトラブルだった。
本気の嫌悪感を持つということは、
相手とそれなりに強い接点があったことの裏返し。
それゆえ、事後の変化振りも大きくなる。
人間って面白い。
その人には相応の魅力があったはずなのに
欠片(かけら)も感じなくなった。
同じ生活エリアで同じ空気を吸うことが不快になり、
相手の姿が視界に入らないようにした。
と、いうよりも、それ以上に
「こっちの視界に入って来るなよ」と激しく思った。
昨日まで友人だった相手が、
一夜にして通りすがりの見知らぬ他人に変わったのです。
理由は幾つかあった。
たとえば、
・トラブルの起点になった自身の発言責任は全く省みず、
自己本位の視点に偏っていたこと。
・過剰な被害者意識から相手(私)の話を一切遮断したこと。
・当事者間で解決できるレベルの揉め事に、直接の利害関係に無い
第三者(相手の身内ゆえ第二者か?)を組み入れたこと。
・その第二者が威嚇してきたこと。
・不要な恣意的パフォーマンスを持ち出してきたこと。
・決して受け入れられない単語を一方的視点で吐かれたこと。
など。
が、こんなことは些細なことである。
向こうにしてみればコチラに対する憤りから
一方的に言い放ってきたのであって、至極当然だろう。
おかしいんじゃない? と、返したところで何も始まらない。
それはトラブルの当事者としてお互いさまなのだ。
ただ、自分としては、「少なくともお前とは同類じゃないぞ」
という気持ちを持っていた。
友人関係を閉じよう(閉じて良かった)と思った根本的な理由、
決定的な要素がそこにあったからです。
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言葉や文字が使えて、
互いにコミュニケーションを交わせる人間にとって、
最大の不幸は自分(の気持ちや考え)を表現しないことだと思う。
相手は “自分” というものを出さなくなっていた。
それは私と揉めたから・・・ということでもなく、
本人固有の特別な事情や性格に由来するところのもの。
それがある時期から顕著になり、
トラブル当時は一段と加速していたように思う。
“自分” を持てない。
“自分” を発せない。
ヒトだけが持てる最高の道具を捨てている人間と、
もはやコミュニケーションなど交わせる状態になかったのです。
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一年という時間を経た今、あのトラブルは私にとって、
却って有り難いことだったのだと思えるようになった。
それまでの膨大な時間を含め、無駄な気遣いを続けていたことを
相手から教えてもらったとも言えるからです。
・
・
私は人と通じようとすることを自ら放棄している最低の人間です。
何の価値も生まれませんから、どうか私に触れないで下さい。
・・・ あのトラブルの時、
君の方からそう申し出てくれたのだと思えました。
それで助けられたよ。ありがとう。
いつの日か機会を得ることがあったら、相手にこう言って
感謝するつもりでいる。
イヂメ気質に変化なし。(笑)
常に “自分” 有り。
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COMMENT
無題
ふっ、ふっ、ふっ・・・。(笑)
無題
有名な某ギターを弾く方にもそうお伝えしたい心境です。