先日、(NHKの衛星放送だったと思うが)テレビを観ていて『本当に上手いなぁ、
この人・・・』そう思った歌手がいた。それは森進一さんでした。その時耳にした
のは「襟裳岬」です。元々好きな歌ではあったけれど、曲の素晴らしさに更めて
感じ入ってしまった。そしてその時は、数日後に歌詞をリアルに感じることになる
などとは思いもしなかった。
かつて春先の襟裳岬に行ったことがある。風だけが強く、殺風景で何もないところ
でした。きっと冬は本当に寒いのだろうと思う。
寒いともだちが訪ねてきたよ
遠慮はいらないから暖まっていきなよ ♪
「襟裳岬」には、こういうフレーズがある。歌詞全体では、厳しく辛い冬を超えた
襟裳の地がようやく暖かい春を迎えることに例えて、“沈んだ気持ちのリセット=
季節変わり=春への期待感” を表現している楽曲なのだろうと、自分なりに勝手に
解釈している。この二行の詞には冬を引きずっている友人を暖かく迎え、一緒に春を
感じたい、そんなさりげなく温かい気持ちが表現されているように思える。
今日、自分のところにも二ヶ月振りに “寒いともだち” が訪ねてきた。とは言っ
ても、寒いと思っているのは自分だけであって、実は、ともだちはもう寒くはなか
ったのかもしれない。
冬の間、気持ちの中ではこのともだちの春を待ち望み、季節が変わっていくことを
願っていた。ところが実際に本人の姿に触れてしまうと、安心するどころか心配ば
かりが先だち『本当にともだちは春に入れたのだろうか?』そう考えてしまう。
ともだちは精一杯元気な様子を見せてくれていた。でも自分は、本人から発散され
てくるいつもの “気” を感ずることができなくて、逆にそれをたまらなく辛い “絵”
として受け止めた。どうしたらいいんだろ? うろたえた自分は、結局、掛ける言
葉も見つけられなかった。
北の街ではもう悲しみを暖炉で
燃やしはじめてるらしい
理由(わけ)のわからないことで悩んでいるうち
老いぼれてしまうから 黙りとおした歳月(としつき)を
ひろい集めて暖めあおう ♪
今になって、こうすりゃ良かったんだと、やっと思えるようになった。
冬の辛さも燃やしてしまえば暖かくなる。周囲の人間が引きずってどうするの?
やっぱり気にし過ぎる自分がおかしい。この状態で接し続けたら、ともだちの方が
辛くなってしまうだろう。ひろい集めて一気に燃やさなきゃいけないのは自分の方
だよなぁ。
この二ヶ月自分の中に積もっていたモノ、今日を機会に燃やしませう。
春は盛りでなくても良し。ともだちは確実に春に入ったのだと思う。 “気” が感じ
られなかったのは、久し振りに会って、いつもの自分が見つけられずに戸惑ってい
たからだろう。
自分は満開の桜ばかりが春だと思っていたが、決してそうじゃないってことだなぁ。
勘違いしていたようだ。
身構えながら話すなんて
ああ おくびょうなんだよね
襟裳の春は何もない春です ♪
ともだちは、もうおくびょうではなかったよ。だから自分も身構えるのはやめましょ。
少しでも感じれば春。出来上がった春を期待するよりも、その兆しに大切なものを
見つけよう。それこそが本来の春。
何もなくたって春なんですよね。
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